2005年 05月 23日 ( 1 )

自分でもなく他人でもない

 研究者の世界というのは古典的、悪く言えば保守的な世界です。未だに師弟制を採用しています。簡単に言えば、誰かの下について、指導を受けるのです。色々批判はありますが、未だにこの制度が残っています。残ると言うことは、ある程度の合理性を有していることなのでしょう。
 著名な学者の指導を受ければ、必ず立派な学者になれる、というのは大きな誤りだと思います。著名な学者の弟子と言われながらも、ろくな業績を出していない学者は相当数います。
 一方で、指導教授は誰でも良い、というのは大きな間違いだと思います。確かに、指導教授の世話をろくに受けずに立派な学者になった人もそれなりにいます。しかし、そう言う人は、特異まれなる天才肌で、誰の指導を受けなくても、難なく論文の一本を書ける人なのでしょう。多くの著名な学者の背後には、必ず立派な指導教授の存在がうかがえます。
 指導教授の具体的な任務は、論文指導にあると思いますが、修士レベル、博士レベルの論文を指導するのは並大抵のことではないと思います。自分で論文を書く分には、自分の責任で自分の興味ある部分だけ調べれば足ります。しかし、他人の論文を指導するというのは、それとは違うと思います。指導教授は、国内外を問わず判例、学説に精通している必要があると思います。例えば、民法なら民法で「オールラウンド」でなければなりません。その意味で、大学者から大学者が生まれる確率が高いことも、これまた事実なのです。
 私は天才肌のタイプではありません。「自分の力で論文は書く自信はあるので、指導教授は誰でも良い」と言ったら、飛んだ思い上がりだとして私は軽蔑されるでしょう。そのぐらいは承知しています。
 私の今があるのは、様々な人と出会い、その中で自分なりに吸収していったからなのだと思っています。大学時代を例に取れば、やはりゼミの先生の存在が大きかったと思います。判例報告1本するために、相当時間をかけて指導して頂いたことが、今の自分の血となり肉となっていると思うのです。逆を言えば、自分一人だけでは到底ここまで来ることは出来なかったと思います。
 もちろん、論文を書くのは誰でもない自分です。自分がろくな論文を書けないことを、指導教授のせいにすることは、飛んだ思い上がりだと思います。しかし一方で、やはり指導教授の力が大きいことも、これまた事実なのです。両者は矛盾しているように一見思われるかも知れませんが、よくよく考えてみると、立派に両立する事実なのです。
[PR]
by meronpanss | 2005-05-23 03:25