中野次男編『判例とその読み方〔改訂版〕』(有斐閣、2002年)10頁以下。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4641027730/qid=1112525293/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-7444770-4845834 「今日では、大学の講義でも、教科書でも、判例に言及していないものはない。しかし、そこでは、自分の学説を述べることが中心となるから、判例は、単に参考として、あるいは批判の対象として、他の学説と並べて引用されることが多い。そのため、これらによって法律学を勉強している学生や受験生は、とかく判例というものを一般の学説なみに考える傾向があるように思われるが、それにも無理からぬことがある。 ところが、そういう人たちが法曹になろうと志して首尾よく司法試験に合格し、司法修習生として司法研修所で実務家になるための修習を始めてまず驚くのは、判例というものが学説とは比較にならない大きい権威をもっているということであろう。 そこでは、どの法律問題についても、その点に関する判例はどうなっているのかがまず問題とされる。そして、判例があれば、大抵はそれに従うべきだといわれるだろう。そのこから知られるのは、判例が好むと好まざるとにかかわらず実務の世界を支配しているという事実である。その人たちがそれまで学んできた○○教授の学説も、判例の前には光を失ってしまう。だから司法修習生諸君は、初めのうちはその点でかなりの戸惑いを覚えるのである」 「実務は判例」と言いながら、何故かそれが徹底されていないのが、これまでの司法試験受験界だったように思える。例えば、刑事訴訟法で、別件逮捕における本件基準説が受験生の中で何故広がっているのか。少なくとも最高裁判所の立場は、別件基準説だと思う(狭山事件の最高裁決定参照)。もちろん、判例を支持するかは個人の自由だと思う(私だって、全ての最高裁判例が正しいとは思っていない)。が、「実務は判例」と言いながら、平然と本件基準説の論証を書く人間を、私は信用しない。 判例がおかしいと言うならば、判例の立場を正確に挙げ、その問題点を指摘した上で、自説を述べることが必要だと思う。 もちろん、判例の立場を正確に押さえていないにも関わらず、判例を批判する学者は論外と言わざるを得ない。
by meronpanss
| 2005-04-03 19:49
|
カテゴリ
以前の記事
2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 2004年 10月 2004年 09月 2004年 08月 2004年 07月 2004年 06月 フォロー中のブログ
メモ帳
ご意見等はこちらまで
最新のトラックバック
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||